バスを降りると、身震いするような冷たい空気が頬を掠めた。
寒さの厳しい冬でもあるが、それは日本酒を作り出すための絶好の環境を提供してくれる時期でもある。
千葉県香取郡神崎(こうざき)町。
ここに寺田本家はある。
江戸時代から続く酒蔵というのは日本には無数にあるが、寺田本家と聞いて日本酒の銘柄を思い浮かべられる人は少しだけ人生を得しているかもしれない。
かつて、寺田本家の先代当主寺田啓佐氏が著したのが「発酵道」という本である。
筆者にとってもこの本に出会えたこと、そして、先代当主寺田啓佐氏に会ってお話を聞けたことは人生の転機をもたらす一大事だった。(なお、先代当主寺田啓佐氏は2012年他界されている)
酒造りを通して、先代当主寺田啓佐氏が見つめ続けたのは、目には見えないはずの微生物たちの姿であった。
「発酵道」この本には、そうした微生物たちの織り成す自然界のすばらしい営みと関係性が文字によって私たちにも理解できるように記されている。
そこで僕が知ったのは、微生物たちが渾然一体となって作り出している自然調和の世界だった。
現在の寺田本家の伝統文化を承継しその重責を担っているのが、写真の現当主寺田 優氏である。酒造りの本当に忙しい時期でもあるにもかかわらず、蔵の中をご案内してくれた。まずはそのことに感謝。
筆者は寺田本家にもう何度となく訪れているのだが、いつも寺田 優さんの姿と語り口に頼もしく思う。この人たちは酒造りを営みとしているが、実は世界の不思議を守り続けている人たちでもあるからだ。
「不思議ですけど」
今年から杜氏も担っている寺田優さんの口からは、何度も「不思議」という言葉が飛び出した。酒造りを行っているプロだから何でも解っているという顔をするのではなく。
寺田本家は米を蒸すのも甑を使う。蒸米機もベルトコンベアも使わない。米もみんな蔵人が手で研ぐ。
ある意味時代に逆行しているのかもしれないが、寺田本家は酒造りのやり方を伝統的な方法に少しずつ戻していく努力をされている。
そのほうが経営上得策だから?酒が美味くなるから?カッコいいから?
もちろん当主として考えるべき筋もたくさんあるだろう。しかし、一番すんなり来るのは、先代当主寺田啓佐氏が語っていた「そのほうが菌たちが喜ぶから」であるように僕は思っている。
これ、皆さん平然と写真を撮っているが、場所は麹室である。
酒蔵見学したときでも、麹室に入れてくれる酒蔵は本当に稀少だと思うし、僕の感覚からすれば信じられないことでもあった。
なぜならば、麹の培養でもっとも気をつけなくてはいけないことは、悪さを働くような雑菌の繁殖を防ぐことだからである。しかし、十年近く前に僕がはじめて寺田本家を訪れたときにも、先代当主啓佐さんは麹室にうれしそうに招きいれてくれた、
そして、それは今も変わらず、こうして私たちは室の中にいる。
室の中は不思議な温かさが充満している。きっと、母親の胎内にいるときはこんな感覚ではなかったのかなという不思議な安心感がある。
寺田優さんから、酒造りでもっとも肝要な麹作りの説明をしてもらう。そして、みなを麹室に招きいれてしまう理由も。
「皆さんが連れてきてくれた菌たちが、さらに麹たちに良い影響を与えてくれる」
純粋培養ではない、渾然一体の培養法。これをいったいなんと呼べばよいのだろう。けっして他の菌を邪険にして押し退けるのではなく、仲間として包み込み調和させてしまう、そしてそれを「不思議」と呼びながら、麹たちの強さを心から信じている。
ここで失敗すれば、酒造りも失敗してしまうかもしれないのに。しかし、そうした信じることの確かさが、今の寺田本家のあの不思議な力強さと生命力にあふれたような酒を醸し出すのだから、もう本当に「不思議」としか言いようがない。
寺田本家では、酛(もと)をかき混ぜる酛摺りの際に、歌を歌う。蔵人の歌である。(実際に聞きたい人はこちら)
なぜ歌うかといえば、それもやっぱり微生物たちが喜ぶからなのである。
微生物たちに耳がついているかといえばついていない。しかし、感じるものは何がしかあるのかもしれない。
酒に聞いてみるしかないため、私たちはそれを体内に取り込んでリズムを聞くのだ、菌たちのリズムを。
そのため、こうしてタンクから酒を試飲させてもらってみると、確かに私たちの舌が鼓を打つのである。
蔵見学を終えた後は、みなで交流会を行う。当然酒を飲み交わしながら。
中島デコさんと林良樹さんと寺田優さん。
このすばらしい発酵的な組み合わせの会話を聞くことができるのも、なんという贅沢なことだろう。
微生物たちの世界を学び、世界に反映させること、それこそが発酵道のあるべき道だと思う。
この道の敷石のひとつにでも成れたら、私は幸せだ。
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いつもは「ですます」調で文章を書くようにしておりますが、この旅記に限っては文体の都合上簡潔な「である」調にしています(星空スペース店長)