こんにちは、星空スペース店長です。
これまただいぶ前の話になってしまうんですが、里山カフェ&ゲストハウス souの小林さんご夫妻に誘われまして、睦沢町立歴史民俗資料館のこちらの展示会に行ってきました。
いつものように、ゆっくり考えておったら、ブログにあげるのはこんなタイミングです(笑)。
なんと下の企画展は5月28日(日)までです!すみません急いで~!
睦沢町の情報発信サイト「むつざわにきてね」はむつざわ未来ラボという団体が運営しておりまして、souの小林さんはそこのメンバーでもあります。
以前、このブログでも睦沢町立歴史民俗資料館の特別展のことを記事にさせていただきました。
【10/1-2/12】旧家に伝えられた名品 睦沢町歴史民俗資料館
そしたら、souの小林さんからお声がけいただいて、なんと館長や館員の方の解説付きでお宝を楽しむことが出来たわけですよ。それがこちらの記事です。
睦沢町の魅力発信ウェブマガジン『むつざわにきてね』に星空スペース店長友情出演!
で、この記事の中で、続きを書くそぶりを見せつつ、4ヶ月近く放置して今に至るワケです!わはは、わっはっは!
・・・ごめんなさい。
まあ、ちょうどいいので、『旧家に伝えられた名品』展と、そして今開催中の『再生する名刀の美』展、両方の展示会について、僕が何を見ようとしていたのか、書いていきたいと思います。
なお、「再生する名刀の美」展については、souの小林さんがすばらしすぎる展示会レポートを書いてくださっているので、展示会の内容についてはこちらの記事をご覧ください。
人によって、古美術や骨董品と呼ばれるものの鑑賞法はいろいろですよね。
純粋に芸術作品としての美しさを見てもいいですし、その作者や歴史背景に思いを馳せるのもまた楽しいものです。
もちろん僕もそんな気持ちを持ちつつ作品を見ているんですが・・・
もう一点、僕がこの房総に移住してきて以来ずっと関心を寄せていることがあります。
それは、房総の文化を守るのは誰か、という問題です。
いわゆるパトロンという存在についてです。
芸術論におけるパトロンというのは、後援者・支援者という意味ですが、まあ早い話が、お金を出してくれる人ってことですよ。
僕は、地域活性化という文脈で「成功」というためには、アート(ここでは「芸術」といわずアートと総称します)の復活が不可欠であると思っています。(なぜ芸術の復活が不可欠かという話は長くなるんでまた今度にします)
明治以前の日本は完全なる地方分権型の社会で、そこには地域に根付いた独自のアート文化がありました。もちろん、今となっては埋もれてしまっているものの、ここ房総にも独自のアート文化がありました。
そして、そうしたアート作品を作り出すアーティストを下支えする支援者(パトロン)が必ずいたんです。では、房総文化の守り手は誰だったのか。
すこし、戻って。
アートにおけるパトロンの存在は、植物でいう「土」のようなものです。
大地に植物は根を張り、幹を伸ばし葉を開き、そして花を咲かせ実を成らせます。
アート作品の支援者は肥沃な土壌、アート作品の作り手は植物の幹や葉、そして世に生まれたアート作品は花や実に該当します。花であるアート作品は、水と養分がないと成り立ちません。
アート(芸術)は、人間の経済活動・社会活動の上澄みみたいなものだと僕は思っていて、アートが「文化」としての背景を持つためには、そのアートを支える多くの支援・支援者を必要とするものです。何も金銭的な支援だけではなく、アートの価値を認めそれを正しく評価・共有してくれることも重要です。
昨今、地域活性化・地方創生の最終兵器として、アートを持ち出す地域が増えてきました。実際、さまざまなアート文化によって地域経済が潤っている地域も日本には数多く存在します。古くからのアート作品群を大切に守り続けることで人を呼び寄せている京都や鎌倉、あるいは芸術祭のようなやり方で観光産業と一体となったまちおこしを図る直島の瀬戸内国際芸術祭や新潟県十日町の大地の芸術祭などが成功例として想起されます。
こうした成功例に続けと、さまざまな地域行政・政策の思いと絡まって、本当にいろいろな地域でアートを使った町おこしが盛んに催されています。
しかし、上図で説明したとおり、アートの成立にはそれを支える肥沃な大地の存在が不可欠です。その土の存在を意図的に無視して、アートを盛り上げようとしても、一時的に花は咲くかもしれませんが長続きせずにすぐに萎れてしまうでしょう。
たとえば、今回ご紹介している刀剣を例に考えてみましょう。
こちらに今回の展示会の詳しい説明が書かれていますが、睦沢歴史民俗資料館の多大な努力によって、GHQに接収されていた名刀が17本(本当は17振と数えます。ここではわかりやすく”本”で通します)がよみがえりました。
GHQの保管状態が悪かったため、刀の多くは錆付いてしまい、かつての輝きを失ってしまったのです。
そこを睦沢町歴史民俗資料館と睦沢町が連携し、もはや日本では数少なくなった研ぎ師にお願いして、一年に一本ずつ研いでもらったそうです。
なんで一年に一本ずつかといえば、研ぎ代というのは刀剣クラスになると何十万もかかるからなんですよ。(下手すると100万以上いくこともあります)。
刀剣というアート作品は、かならず研ぎや拵えの部分でメンテナンス費用を必要とします。「刀の研ぎ代も無い」とは昔の貧乏侍を表現した言葉でした。
わかりやすくいえば、刀剣というアートを文化として残していくためには、研ぎと拵えなどのメンテナンスを行える業師が必要で、さらにその費用も当然ながら馬鹿になりません。研ぎ師も生活していくためにはお金が必要ですから、刀剣文化が成り立つためには、そもそも刀鍛冶や研ぎ師の生活を誰かが見なくてはならないのです。
かつての日本では、市井のちょっとした武家や長者が刀をメンテナンスしたため、必ずどこの地域も鍛冶屋や研ぎ師の類は存在していました。しかし、いまやどちらも絶滅を危惧される稼業となり、今回のように地域の少ない予算の中で資料館などが細々と文化の命脈を守っているのが現状なわけです。
もちろん数百本以上存在する赤羽刀(GHQ接収刀)の中から、とにかく数十本でも銘刀を救い出すことだけでも貴重なことであるわけなんですが、日本刀という文化を絶やさないためにも文化を支える“土”である支援者の存在を掘り起こすことは急務といえます。
さて、話はちょっと変わるんですが、房総半島には近世を代表するアート文化を守る背景があったと僕は見ています。
まだまだ評価が圧倒的に低いのですが、江戸八百八町の周辺地域という存在にとどまらず、房総には房総の江戸文化があったはずなんです。
そのことを、あらためて再確認できたのが、実は一番最初に紹介した旧家に伝えられた名品展だったのでした。
この中で、だいぶ時代は近代になるのですが、数多くの名品が房総の旧家に眠っていることが確認できました。
中でも、この斉藤巻石の屏風といった作品群がきわめて重要な意味を持つように僕は思っていました。
なぜならば、この屏風(アート)の成立に、房総の文化を支援していた房総の“今は無き”大勢力の姿を見ることができるからなのです。
それは、もはや過去の存在となってしまった房総の「網元」そして「問屋百姓」の存在です。斉藤巻石の支援者は網元であった親類でした。
房総の文化を支えた経済的大勢力として、このふたつの存在は不可欠だと僕は考えているのですが、今となってはほぼ完全に往時の姿を消してしまっています。
明治初期まで、江戸の町はある種の経済の原動力を、完全に房総に依存していました。それが、肥料として金肥とまでいわれた干鰯(ほしか)や油粕であり、これは房総の海と山が供給の最大シェアを取っていました。
また煮炊きに必要な薪炭も、房総から。
自動車なんか無い時代の移動手段である牛馬も、房総から。
塩も毎日の食卓に上る魚も、房総から。
こうした経済をまわす原動力としての基礎産品を、房総は江戸および関東全域に供給しつづけていたのです。
当然ながら、その供給源を握った経済主体は潤います。
江戸時代の網元と大問屋がどれほど興隆したのか、どれほどすごい勢いがあったのかは、書物や風物から推察するしかありませんが、いまの房総の地域経済力からすれば信じられないほどに、江戸時代多くの富を築いていたはずなんです。
先ほどから何度も言っているように、アートが文化として花開くまでには多くの富がバックグラウンドとして必要です。
そして、房総にはそのバックグラウンドがあったはず。であれば、そこには房総独自のアート文化が花開いていたと考えても、まったく不自然ではないのです。
しかし、肥料・燃料・食料としての経済的地位を失ってしまった明治以降、千葉の経済は急激な衰退を余儀なくされました。そして、終戦以降はさらに東京への経済的依存を強め、ある種の属国精神まで染み付いてしまいました。
これを抜け出すためには、最終的にはアートの領域までも、東京とは違う「房総の文化」を確立することが、絶対に必要です。
であればこそ、その房総の文化を誰が育むのか、その文化を守るのは誰なのかという問題を今一度、歴史を見直しつつ考えなくてはなりません。
今回ご紹介した睦沢町の展示会はそういう意味でも考える材料として最適なアート作品を提供してくれています。
アートを見つつ、今一度房総の文化が花開くために私たちに何ができるのか、そういうことを多くの人が考え始めてくれれば良いなあと願っております。
(良)