星空スペース

地域マドラーの必要性


こんにちは、星空スペース店長です。

いよいよ寒くなってまいりました。ついに星空スペースもストーブを点火いたしましたよ。

こうなるとあの暑かった夏がはるか遠くのことのように思えて恋しくなったりするんですから、人間は好い加減なものです。

 

こんな冴えない天気の今日は、以前から考えているちょっと抽象的な話でもしてみようかと思います。

以前にビジネスコンサルタントとして働いていた職業病で、どうにも私は自分の行動を理念化しないと気がすまないところがあり、またさまざまな社会的ニーズをビジネスモデル化しないと気がすまないところがあったりします。

地方活性化の文脈にかかわるさまざまな仕事や活動に携わらせてもらう中で、これから書きますような存在が地域には必要なんじゃないかと思っておりまして、またそういう存在になりたいという意味でも、その存在価値の理論化を試みてみようと思いました。

 

まず話の前提として。

muddler

皆さんはこの矢印の、カクテルとかでよくグラスに刺さっているこの棒の呼び名をご存知でしょうか?

「あ~あれ。混ぜ棒?」

まあ、混ぜ棒でも別に良いんですが、カッコいい言い方であの棒は「マドラー(muddler)」といいます。

英語のmuddleから派生している用語で、このmuddleは「かき混ぜる・ごっちゃにする」という意味を表します。

「かき混ぜるもの」だから、マドラーなんですね。

 

さて、カクテルなんかは下に溜まっている成分をよく混ぜるためにマドラーを使いますが、実は地域についてもこのマドラーが必要なんじゃないかというのが今日の本題です。

わかりやすいように概念を図にして説明していきます。

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まず、概念として容器に入っている水と土を思い浮かべてください。

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この容器の中に入っている土は、地域に存在するさまざまな資源を抽象的に図示しているものと思ってください。

そして、地域には昔からその地に住んでいる地元出身の方々がいらっしゃいます。

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こういう感じですね。地元の人たちは当然ながら、地域資源と接して暮らしていますし、密接に結びついてもいます。

ここにいすみ市のように外から移住者が入ってくるとどういうことになるでしょうか?

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移住者は最初は浮遊している存在です。そして、自分の仕事や生活スタイルにあわせて、地域との折り合いをつけていきます。

ただし、よく見られるのはこういう現象。

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移住がそれなりに盛んな地方でよく見られる状況です。

移住者は移住者同士でつながり、地元民は地元民でつながる。移住者のなかには、誰ともつながることができず浮揚し続ける人もいます。

これを容器の外側から見ると、ちょうど二つの層が重なっているように見えますね。

そして、地域資源は、下の層にある地元民に圧倒的に密接している。

移住者には、ほとんど解放されていない状況にあります。

もちろん地元の方々はさまざまな生業に地域資源は活用されているわけですが、堆積している地域資源、容器のそこのほうに眠っている資源は、地元の方々も必ずしも使いきれていないことが見えます。

 

この状況を問題と感じる点は大きく2つあります。

1つ目は、移住者グループと地元民グループの交流があまりないこと

一つの地域にいながら、移住者は移住者グループの中でのみコミュニケーションを行い、地元民は地元民グループの中でコミュニケーションを行う。

この状況が深刻になると、互いに断絶を生む心が生まれ、互いのグループを排除しあうような圧力さえ生まれたりします。

地域活性化とは、地域住民が団結して取り組んでこそ、はじめて成功しうるものです

一部の人が飛躍的に飛びぬけて成功してしまうと、他の人の没落を生んだりします。

もしくは、一部の人のみ地域でがんばっていて回りは無関心でいると、いつかがんばっている人たちも疲弊し精根尽き果てて活動をやめてしまいます。そして、この地域では「何をやっても変わらない」などと言うようになり、それがさらに地域の無気力を誘います。

これが問題の1つ目です。

第2の問題は、地域資源の未活用が放置されることです。

上の図を見てもらえればわかるとおり、通常地域資源は地元民と密接に結びついています。これは当然のことです。

農業や漁業を見てもらえればわかりやすいように、地域資源を使って地元の人々はさまざまな生業を行っているからです。

しかし、昔はともかくとして、現代においてはこの地域資源の未活用の度合い・幅が拡大してきています。

まずは地元民の人口減少そして高齢化が大きな原因で、そもそも地域資源が使われなくなってきてしまっていることがあげられます。

もう一つは、地域資源の潜在的な可能性に地元民が気づいていないことです。これは地域を外側から見た俯瞰的な視点が求められることが多いことにより、地元民がさまざまなビジネスニーズに気づきづらいことが理由に考えられます。

そして、そのことについては地元民よりも、外側からきた移住者のほうが、地域資源の価値に気づきやすいという傾向が確実にあります。

しかし、先ほど述べたとおり、地域資源は地元民グループに近い層に存在していて、移住者グループにはあまり解放されないという傾向もまた、確実にあるといえると思います。

このことから、移住者が使いたくても使えないという問題が生まれて、せっかく良い地域資源があったとしても、未利用のまま放置されるという状況を作り出してしまうのです。

この大きな2つの問題を解決するためには、地域という容器の中身を混ぜるようなマドラーの存在が必要だと、私は考えています。

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容器の中身をかき混ぜるとどういう状況になるでしょうか。

予想されるのは、二つの段階に分けられるはずです。

まず第1段階はカオス(混乱)期です。

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当然ながら、常態化していた容器の中をかき回すことは、中の人々にとってはある種のインパクトとストレスをもたらします。

そうした混乱に耐えられない人からは「今までのままでよかった」と非難されることもあるでしょう。

人間とは本来的に保守的に作られているもので、こうした反応は至極当然なものです。だからこそ、マドラーを混ぜる人のテクニックが問われます

うまく混ざるように。うまくかき混ぜられるように。

それは確実にテクニックの要ることなのです。

そして、その混ぜるのがうまくいったときには、第二段階。

下の図のようになることでしょう。

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まず、第一の問題であった移住者グループと地元民グループの交流があまりないことは、移住者と地元民が交流しあう状態になると、蜜に結合するようになります。そして、移住者だろうと、地元民だろうと、地域の問題を真摯にとらえていっしょに問題を考えるようになり、問題の解決に向けて協力しやすい体制がとりやすくなるでしょう。

第二の問題であった地域資源の未活用が放置されることですが、これも移住者も含めて、地域住民が地域資源にアクセスできるようになったことにより、利用の度合いと幅がひろまり、今まで活用されていなかった類の地域資源の活用も始まって、地域の経済と社会が活性化するようになるでしょう。

 

逆にマドラーのテクニックがなかった場合には、より悪い状況をつくりだしてしまいます。

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再び、地元民グループと移住者グループの層ができてしまい、しかもお互いの層同士が「水と油」の関係になってしまい断絶が生まれてしまうことです。

さらには、地域から弾き出されるような移住者も出てきてしまうでしょう。

そうした危険性もあるということを認識して、地域をかき混ぜるマドラーは慎重かつ大胆に作業を行う必要があります。

料理も同じですが、「混ぜる」という所作は実はなかなかテクニックのいることで、めったやたらに混ぜ合わせてはいけないんです。

さっとかきまぜたり、あるいはゆっくりかきまぜたり、なかの素材と状態を見極めて行うことがマドラーを扱う際には求められるのです。

 

さて、ちょっと話を展開させましょう。

今までは移住者と地元民の話でしたが、他にも地域にはコミュニケーションがスカスカに見受けられるものがあります。

それが世代間の断絶です。

 

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いま地域は、このように年代ごとの層に分かれて、しかもそれが交じり合わない状況におかれてしまっていることが散見されます。

これは本当に深刻な問題で、実は過疎化の面たる原因ですらないかと私は考えています。

しかも、先ほどの地域資源のこともあわせてこの図をご覧ください。

地域資源に主としてアクセスできるのは、地元の人であっても50代以上からということが多いのです。そして、都市部のひとにはにわかに信じられないかもしれませんが、地域資源の所有権を有し支配的に扱えるのは田舎では70歳以上の人々が圧倒的に多いという状況があります。50代の人が地域資源にアクセスできるのも、支配権をもっている親の力を利用しているパターンが多いか、相続により引き継いだパターンが大半です。

こうした状況が、地域活性化の文脈でもたらす負の影響は非常に大きいものがあります。

「地方創生」だななんだで掛け声として「まちおこし」が発せられても、実際には若者達には自由に使える資源が少なく、何をするにしても上の世代の許認可を得ながら行動しなくてはならないがんじがらめの状況では、やる気をもってやれというほうが無理なことなのです。

そうした結果どうなるか。

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このように、地域の中で若者の層はばらばらになってしまい、さらに地域のことに興味を持てなくなった人から地域を見捨てて他の地域に流出してしまうのです。ですが、いま若者の中には地域の問題、地方の問題に関心を持っている人はたくさんいます。そうした若者に目を背け続けていながら、地方の問題を語ることにはどうしても欺瞞を感じます。

任せる代わりに責任を持たせる、その当たり前のことをやれば、若者は自然と地域のことを考えるようになります。そうした地域の覚悟が必要なのです。

昔は、さまざまな互助組織が地域に発達していたため、世代間の継承もうまくいっていることが多かったのですが、今はそうした互助組織も高齢化と少子化にともない急速に力を失っています。もうなくなっていることも多い。

であれば、やはり地域マドラーの出番です。今一度、地域の中で各世代がつながりを取り戻すために、地域をかき混ぜる必要があるのです。

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この世代間のマドリング(混ぜること)は、移住者・地元民よりもさらに大きなカオス(混乱)を巻き起こすかも知れません。

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なぜかといえば、それほどに世代間に共通する価値観・時代認識・文化やバックグラウンドには大きな隔たりがあるからです。

戦後の動乱期を生き抜いてきた世代と、世紀が変わって生まれてきた世代とでは、あまりにも多くの要素で考え方が異なるのです。

だからこそ、混ぜ合わせるにしてもなかなかうまく混ざり合わないこともあるでしょう。そこを根気よく混ぜ続けるという根気よさもマドラーに求められるかもしれません。

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ただし、もしうまく混ぜることができたら・・・

これは非常に強い結合になることが容易に予測できます。上の図を見てもらっても、綺麗に混ぜられたときの美しさがわかるでしょう。

海外の国にくらべれば、日本は人種や言語や宗教の差異といった根本的な問題からは解放される部分が非常に多いため、本来的に地域的な結合が組みやすい環境要因を持っています。

しかも、地域資源を互いに共有し、活用できる環境が整ったら、地域ほどさまざまな可能性を飛躍的に発展できる場所はないでしょう。

実際に、若者とそれを支える世代とが蜜に協力している地域ほど、今注目に値する大きな実績を残していることを、日本のいろいろな地域で見出すことができます。

 

さて、これは田舎サイドに限らないことなのですが、もう一つ今の地域問題を考える上で混ぜ合わせないといけないことがあります。

それは異なる地域と地区の交流です。

例えば、わたし達が住んでいるいすみ市内だって、実はぜんぜん一枚岩ではありません。

特に合併前の旧町村の区割りは今でもかなり根強く残っていて、それは地区のまとまりという意味ではまったく悪いことではないのですが、しかしいすみ市という広い視点で見たときには弊害をもたらすような結果になっていることも見受けられます。

 

 

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例えるような上の図のような感じですね。

いすみ市という区割りですら移住者からみるとけっこう無理がありまして、もっと大多喜町とかとも協力したりすればよいのにと思うこともままあります。

地続きなんですから、協力すると地域資源をもっとうまく活用できるなんてことはたくさんあります。地の人間でないと、その地域の資源を活用できないと言っていたんでは、いつまでたっても大きく発展することはできません。

同じような地域問題を抱えているのですから、協力できることはどんどん協力し、逆に地域の強みになりそうなことにもっと注力できるようにすれば良いのです。

さて、ではまた地域マドラーの出番となるわけですが、その前に今回は注意点があります。

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それは混ぜるといっても「均一化・均質化」を回避するようにしなくてはいけないということです

いままで日本はさんざん均一化・均質化することに力を注いできました。

それが成功に次ぐ成功を収めて、今では日本の国道沿いはどこに行っても大体同じ風景ということになってしまいました。

もちろん、それが大資本をもつ大企業を成長させる要因ともなったわけですが、一方で均一化・均質化は特色のない地域を日本全国に作り出してしまい、地域の力を大きく削いで衰退させるという結果をもたらしてしまっています。

ですから、地域の良さをなくす方向で混ぜたら意味がありません。

地域のよさを残したまま、人々の交流とコミュニケーションを増やす方向で物事を考えなくてはならないのです。

これは大きな制約ですが、とても重要なことでもあるのです。

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うまくマドラーで混ぜ合わせることが出きると上図のような状態になると考えています。

地域内では団結はしつつも、地域同士を結びつけるキーとなる人材がいて、その人が他の地域との連携していてゆるく結合が取れている状態ですね。

地域資源もお互いにシェアできるところはシェアし、同じプラットフォーム(例:「外房」というくくり)の上でそれぞれの地域を盛り上げる努力を行う。

しかもそれが管状的につながっていけば、さらに地続きで他の地域ともつながっていけるというのが理想だと思います。

料理に例えると、鍋料理ですね。

混ぜるにしても、中身がぐっちゃぐちゃになるほど混ぜてはいけません。

素材の良さを生かしつつ、でも全部の具材に出汁が染み渡るように、混ぜるのです。

やはりこの場合も、マドラーのテクニックが求められますね。

 

さてさて、長きにわたり「地域マドラー」の必要性を見てきたわけですが、では地域マドラーとはどういう存在なのか、という根本の問題が残っています。

しかし、この根本問題に答えるのは容易ではありません。

明治時代であれば、その役割を国家とその出先機関が担ったわけですが、それも今は時代が違います。

であれば、これは「創造」、クリエーションに属することです。

 

移住者・地元民にかかわらず、若者・壮年といった世代にかかわらず、地区と地区といった小さな視点ばかりにこだわらず、地域の未来を本当に見据えて行動できるような存在が求められます。

地域マドラーの必要性は何よりも、その地域の未来をどれだけ考えて行動できるのか、それにかかっているということができるでしょう。

 

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